魅力的なMC

9 同じような考え方

ある日の幼稚園で…(Wish#1)—お腹の中に蝶々がいる—

↑ ここで私は、幼稚園での出来事を書きました

「ルールを守らせることは、心の歪みが生まれることに繋がって、みんなが幸せになる方法ではない」と考えていたことなので、まず伝えたいと思って、Wish#1に書きました

#1を読んだとき、どのような感想をお持ちになったでしょうか?

子供にルールを守らせないなんて、このブログを書いている人は変な人ね~!

K ちゃんを怒鳴りつけた S くんが悪いのにね~

と、ペンギンさんと同じような感想を抱かなかったでしょうか?

私…

#1を書いた時(2年前)よりも今の方が、固く強く自分自身を信じることができています

ブログを書いてきたことによって、「自分が ONF や BTS や福沢諭吉やニーチェと似たような考え方をしている」ということが分かってきたからです💗

もちろん、間違ってしまうことはあるし、思い込みや失敗もたくさんあります

だけど、たどり着いているところが同じになっています😊

自分が好きだと思う人たちも、自分と同じような考え方をしている」ということが分かってきたから、嬉しいのです~💗

私だって、BTS の歌詞に感動するし、考え方をその通りだと思っているよ~

BTS の考え方をその通りだと思って、自分の考え方に落とし込めているなら、私のことを「ルールを守らせないなんて、変な人ね~」とは思わなかったと思います

BTS の考え方をその通りだとは思っていても、自分自身を客観視できないままでいると、実際の、自分自身の考え方が BTS と同じだと勘違いしてしまいます

実際には自分とはどういう人なのか」ということを知ることが、FACE MYSELF になります

異なる考え方(Love#5)—お腹の中に蝶々がいる—

なぜなら、

「ぼくが使っているんだ!」と主張していた S くんは、アイドルたちだからです

神は死んだ

「物事には意味や価値がある」という神の存在を信じていたそれまでの哲学者と、ニーチェは考え方が違います

無宗教が多数派となっている国でもある日本では、「私は神様を信じていないよ~」という方が多いと思うのですが、実は、多くの人々の心の中にその【教え】は存在しているんですね

道徳」です

むか~し昔の日本では、宗教によって「こうやって人や物を大事にするのですよ」「こういう姿を目指して生きていくと幸せになりますよ」と広められ、それが今現在の日本人の「常識」と言われる価値観になっています

教え】が世の中の常識になっているから、「道徳」として私たちに伝え継がれています

例えば、「悪いことをしたらバチが当たるよ」「親を敬い、小さい子には優しくするのですよ」というのも、日本で「道徳」になっていて、それが常識になっています

学校で教えられているのは、この「道徳」なんですね

道徳での【教え】」は「神の【教え】」と、同じような【教え】になっています

日本の道徳は、いろんな宗教が混ざっているから、「〇〇教です」とはっきり言えないのだけど、様々な宗教の【教え】を受け継いでいます

そして、自分ではない他人が言っていることを信じていたら、それは宗教を信じているのと同じような状態になります

言い換えるなら、「道徳の【教え】を信じる」というのは、「親や先生の言っている【教え】を信じる」という宗教になっています

日本の道徳というのは、

「親や先生の言うこときいて【教え】を守るのですよ」というのだから、「親や先生の【教え】を守る」という宗教になっている、とも言い換えられます

「神様の言うことをきいて【教え】を守るのですよ」というのが宗教なのだから、「神の【教え】を守る」という宗教と、日本の道徳は、同じような状態になっています

「人生には意味があります。物事の本質はこういうことなんですよ。」「神や親や先生の【教え】を信じましょう」と言っているのは、宗教・道徳です

「人生に意味はないです。物事の真実もありません。」「神は死んだ。道徳はルサンチマン(妬み)だ。」と言っているのが、ニーチェです

「ルサンチマン」というのを、ぜひ調べてみて欲しいです~😊

奴隷道徳(Love#5)ーお腹の中に蝶々がいるー

それまで人々が信じていた「宗教」「道徳」というものの存在を否定する「神は死んだ」ということをニーチェが言い出したものだから、この当時はものすごい反発があったんじゃないのかな~と想像しています

ニーチェのこの考え方をシンプルに言うと…

せか~い~の~ じょうし~き~より じぶんじ~しんを しんじればいい! (♪Original)

ということだったんですね~!!

「宗教や道徳が伝えている【教え】が間違っている」ということを言っているのではありません

誰かの言っていることを信じる生き方をするのではなく、自分自身を信じる生き方をする、ということが幸せになる考え方だということです

自分をつくっていくことが、ニーチェの言っている新しい生き方… というのが、私の解釈です!

ニーチェが伝えようとしているのは、人々が幸せになる『考え方』なのですね~

自分で価値を決める、というのは、『こうなりたい』『こうありたい』『こうしたい』という自分の意志、生きるエネルギーが生まれてきます

やりたい』という意志を持って、【自分軸】を持って生きる、人間です

力への意志」を持って、それを誠実に表すのが、超人なのですね~!!

自分で考えて、自分の幸せを自分で決めればよいということですね

神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。

ニーチェ

「神は死んだ」と言っているニーチェは、「神や親や先生の【教え】を守ることは死んだ」と言っているようなものだと私は解釈しています

「違いを認める」
「人それぞれ異なる価値観がある」
「個人の自由」

という新しい考え方は、ニーチェが100年以上も前に先取りしていた考え方です
これが、「新しい世界」の考え方であって、ヨーロッパの方は真心が素直に伝わる「新しい世界」になってきています

神(道徳)を信じているというのは、
「絶対的な(共通の)価値観が存在する」
ということになるから、ニーチェは、「神は死んだ」ということを人々に伝えているんですね~

絶対的な価値観 = フレーム

と言い換えることもできます

「神は死んだ」というのは、「『他人が決めた価値を守る』という考え方を無くす」ということ

つまり、価値というのは他人が決めるもの(フレーム)ではなく、価値は自分自身が決めることです

道徳の【教え】を殺す、つまり、

「ルールを守りましょう」と言っていた親や先生の【教え】を、我々が殺す

ということですね~!

Sくんは、アイドル

「ぼくが使っているんだ!」と主張していた S くんは、アイドルたちだからです

もちろん、例えです~!

S くんが1人で楽しく遊具で遊んでいることは、誰にも迷惑をかけていないですよね~!

ところが、その遊具で遊びたいと思っている他人( K ちゃん)が現れることによって、別の仮面が必要になるのです!

他者とのかかわりの中で、仮面を取り替えている、ということは、7ページ目のニーチェの考え方、「仮面」というところに書いています

仮面(Wish#5)—お腹の中に蝶々がいる—

「自分だけの空間で想像して遊びたい。先に使っているから自分のものだよね。」という S くん

「風を切って爽快感を味わって遊びたい。大きいものだし順番に使えばいいね。」という K ちゃん

考え方が違うのが人間だから、お互いに、相手の真心の『声』を聞く

これが、「教育」であるはずです

S くんは、自分だけの空間を取られたことを不満に思う「怒りの感情」をコントロールできなかったため、K ちゃんを傷つけてしまいました

K ちゃんは、自分だけの空間という考え方があることを知らなかったから、空間を奪ってS くんを傷つけてしまいました

2人の考え方が異なっていたため、傷つけ合い、すれ違ってしまいました

相手を傷つけてしまったという事実は、双方に存在します

ここでは、双方に期待される学びがあります

考え方が違うのが人間だから、お互いに、相手の真心の『声』を聞く

自分と異なる考え方を知り、相手の心を想像する力を身に付ける場が、保育園・学校です

自分と異なる考え方を知り、相手の心を想像する力を身に付ける』というのは…

『EQ を高める』 と言い換えることもできるし、

『エンパシーを身に付ける』 と言い換えることもできるし、

新しい脳みそを使う』 と言い換えることもできます

S くんは、

「みんなの空間だと思っている、自分と異なる考え方の人がいる」ということ

「みんなで順番に使おう、と思っている人がいる」ということ

真心を『声』にして伝える方法として、怒りの感情をそのままぶつけると、相手を傷つけるということ

K ちゃんは、

「自分の空間だと思っている、自分と異なる考え方の人がいる」ということ

「自分だけの空間で想像しながら、遊んで楽しんでいる人がいる」ということ

怒りの感情をぶつけてくる人には、その人なりの理由があるということ

こういったことを学ぶチャンスです

だから、この場面で S くんと K ちゃんに必要なのは、

お互いの真心を『声』にすること

なのです

考えさせてもらえない

RM

傷つけ合ってしまった S くんと K ちゃんに対して、大人はどういうことを子供に言うのですか~?

今の日本では、どういうことを子供に言うかというと…

「S くん!謝りなさい!」って言います

「遊具を独り占めして、怒って泣かせたのは悪いことなのだから、謝りなさい」って言います

S くんと K ちゃんの真心は、『声』にしません

だって、周りの大人は「ルールを守るんだよ」って教えてるし、遊具を独り占めして怒鳴って泣かせるなんて、悪い事だよ!

このペンギンさん…

実は、この時…

ど~ん!!

」になっています!

「女の子には、優しくするのですよ~」

「泣かせるのは、悪いことですよ~」

「泣かせたら、謝るのですよ~」

「遊具は、みんなが使うものですよ~」

「一人で使いたいなんて、わがままですよ~」

龍が、「道徳・絶対的な価値」を S くんや K ちゃんに押し付けてくるのです!!!

人間だから、脳みそを使って考え、真心を『声』にしたいのに!!!

「男の子になら、怒鳴っていいってこと?」

「泣いている方は、悪くないの?」

「遊具を基地にして1人で想像して遊んじゃいけないの?」

「遊んでいるところの邪魔をしたら、謝らなくていいの?」

「自分の思っていることを『声』にしたらいけないの?」

S くんは、疑問を持ち、考えます

親や先生は龍となって、考えたいと思っている人間に、「道徳・絶対的な価値」を押し付けます

ラクダになれ!従え!」というのが、日本の常識なんですね~

真心を『声』にして伝えたいと思って、表現しようとしている子供に対して、「真心を『声』にして表現するのはわがままですよ!」というのが、日本や韓国の常識

自分の真心を『声』にして伝える、表現する

表現すると、叱られる

そして、S くんがやりたいと思っていることをやらせない

この時、まだ幼くて表現方法が未熟である S くんに対し、

大人は、

『真心を伝える』『自分のやりたいことをやる』ための方法を、一緒に考えようとしてくれないのです

脳みそを使って、考えて、幸せになりたいのに!!

『真心(本音)を『声』にして伝える』『やりたいことをやる』『自分で価値を決める』なんて当たり前のことなのに、当たり前じゃないのはなぜ?

『真心(本音)を『声』にできない』『やりたいことができない』『他人が価値を決める』なんて当たり前じゃないことなのに、当たり前になっているのはなぜ?

新しい脳みそを使って考えている人間は、龍のやっていることに、疑問が生まれます

新しい脳みそを使って、新しい考え方を手にする人は、

神は死んだことになっている!

宗教も、道徳も存在しないのです

価値を決めるのは、自分だからです

「 K ちゃんの真心を『声』にして伝えていない」「 S くんの真心を『声』にして伝えていない」というのは、「真心を『声』にしたものを通して、お互いの真意を確かめる」ということをしていません

お互いの『声』を伝え合って、幸せになる方法を学ばなくてはならない時に、事実確認をしないまま、大人は龍となって価値を押し付けてきているわけです

S くんは考えている人間だから、お互いの『声』を届けていないことにも、疑問が浮かんでくるのです

このとき、K ちゃんは何を考えているかというと

「怒られたから怖かった」

「どうして怒ったのか分からない」

「私は遊具を使いたかっただけなのに」

「ルールを守らなくちゃだめよ!」

「ルールを守っていない S くんは悪い子だ」

「ああ、怒鳴られた私は、不幸だわ」

K ちゃんは、S くんの真心を『声』にしたものを聞いていないから、S くんが怒っている理由が分からないままになります

龍が価値を押し付けることによって K ちゃんは「ルールを守らなくちゃ」と他人軸になり、【自分軸】がなくなって、判断力がなくなってしまいます

価値を他人が決めているので、その価値に到達できなかった時に、「不幸だ」となります

脳みそを使って、考えて、幸せになりたいのに!!

確か… 日本では…

この世界を常識だと思っている方が多数派ですよね?

だって、「ルールを守ろう」って多くの人は言っていますよね

ルールを守らない S くん

真心を『声』にしている S くん

S くんのことを、わがままで悪い子だと思っていませんでしたか?

「ルールは守らなくちゃ」って思っていませんか?

「悲しいけど、ルールを守らねば!」と思っているということは、「神」「先生」「親」を信じているということなんですね

だけど、私には、「神」「先生」「親」という他人の指令は必要ないのです

自分の頭で考えて、自分で価値を決めることが、幸せになるために必要だから

自分自身を信じているから

これは、私が好きだと思う人々と、同じような考え方なんです