疚しい良心
疚しい良心
ONF が立ててくれた旗を目印に少しずつ登ってきたおかげで、自分がいた世界がどのようなものなのか、見えるようになってきました
苦しみながら生きていた自分自身について、少しずつ分かるようになってきた気がします
自分のことが分かるようになってきて、心が安定してきているような感覚があります
私が苦しんでいたことの1つは、道徳です
親や先生の作ったフレームの中におさまりに行っていたから、苦しかった
自分じゃないものにさせられるレールに乗ろうとしていたから、私は苦しかった
自分で「苦しむ自分」のパラレルワールドを選択していたから、苦しかったのです
・・・
今日の本題は、私が苦しんでいたことのもう1つについてです
道徳とも関係が深いのですが…
それは、「自分はダメダメだ~!」という自分自身を責める自分の心です
自分がダメな人間だ
何も良い所がない
自分なんて失敗ばかりするから社会の中で役に立たない
大嫌いな自分のことを好きになってくれる人なんていない
褒めてくれたり一緒だと楽しいって言ってくれたりする人がいても、そんな言葉を1ミリも信じることができない
こんなふうに私は思っていたから、一生独身でいる覚悟をしていたし、目立たないように過ごしていました(今でも目立つのは嫌ですけど…)
私と一緒にいる時間が楽しくないと思われるのが嫌で、誰かに誘われたら遊ぶけど、自分から友達を誘うことはほとんどなかったし、人と関わるのを可能な限り避けるようにしていました
誰と話をしていても緊張してしまい、脳みそが緊張で固まるから、思っていることを素直に言葉で伝えられなくて、そんな自分が嫌で嫌で仕方なかったのです
詳しくは書きませんが、私の母親の教育・関わり方の影響が大きかったのだと自分で思っています
私の救いとなっていたのは、祖母や父親です
誠実で温厚で優しく、祖母や父に大事にされていることを感じられていたから、私は救われていました

私は、劣等感の塊のようでした…
自分で自分自身を攻撃する心理状態…
自分の世界を広げるのを妨げる心理状態…
自分の行動にブレーキをかける、以前の私のような心理状態…
これを、ニーチェは「疚しい良心」と呼んでいます
ニーチェは、理性至上主義の哲学者のことを批判し、人間の本能や感情こそが重要だと主張していました
ニーチェにとって、哲学者は、「机上の空論を並べている者」だったのですね

現実に即していない、実際と離れている、ということだね~
ニーチェって、自分のことを「哲学者というよりむしろ心理学者である」と言ったりもしていたんです
ニーチェは、人間の精神の深層を暴き出す作業をしていたからです
後世の有名な心理学者であるフロイトやユングにも影響を与えています
心理学は、科学です
人は、自分自身を知らない
人間は自分を理解していると思っているが、実は「無意識の衝動」や「社会的な価値観」によって動かされている
本当の意味で自分自身を知ることができれば、人はもっと自由に生きられる
私がこのブログで量子力学やニーチェの心理学をかみくだいて伝えているのは、自由に生きる方法があることを伝えたいからなのです
自分の描いた理想の自分になるための、自由です
量子力学やニーチェの心理学のことを書いているのは、この学問に感動し、これらが素晴らしいものだと自分で判断しているからです
ここに導いてくれたのは ONF であり、ONF と同じ理想を描いていると信じているから、このブログに書いています
奴隷道徳の世界では、人々は自分の意志で動いているのではなく、実際には動かされている
自分自身のいる日本が、奴隷道徳の社会であるという現実を知る
自分の中にある無意識の衝動と向き合う
自分自身についての知識を得た上で、
今の現実を受け入れてこの場所から動かないままでいるのか、
自分の理想の姿を観測するのか…
アンドロイドとして生きるか
人間として生きるか
葛藤することになる話
↑ 何度も伝えていますが、ONFの表現している世界観です
葛藤し、選択するのは、自分自身
新しい世界は、分かる人だけ分かれば良いのです
分かる人が増えたら、重力が大きくなる💗
元々、人間には、他者を攻撃する本能があるそうです
何かを攻撃して自分が優位な立場になることで、自分が生き延びることができるからなのだと私は考えています
生きものの遺伝子は、利己的です
他者を攻撃することで、自分の優位性が示されます
自分の欲求が満たされます
自分の欲求(○〇したい)というのが実現されたら、快感・満足感などが得られます

確かに、動物の世界は弱肉強食…
ところが、人間は集団になって社会を形成する生き物へと進化しました
社会を作る生き物は、本能のままに他人を攻撃し続けていた場合、その人は社会の中で不利な立場に追い込まれます
人類は協働の社会を作ろうとしているのに、他人を攻撃して傷つける者は、迷惑者・邪魔者になってしまいます
そのため、理性によって、他人を攻撃する本能を抑えています

他人のことを悪く言って攻撃する人は生きにくい社会になってきましたよね…
これも、「進化」と言えるのではないかと私は考えています
協働の社会では、迷惑者・邪魔者は、より良い(強い)配偶者と巡り合えず、その人自身も大事にされないから、自分の遺伝子を残しにくくなります
でも、攻撃性を持っているのが、動物である人間の本性!!
「攻撃したい」という本能の欲求は、どこにぶつければいいの???
どうすればこの欲求が満たされるの???
理性によって抑え込んだり、我慢したりするしかないの???
新たな攻撃先
他者を攻撃していたら、協働の社会が成り立ちません
そこで、人類は、新しい方法をみつけたんです
人類は進化の過程で、「攻撃したい」という欲求を満たす別の方法を生み出しました
人類は、新しい攻撃先をみつけたのです!!!
「攻撃したい」「自分の欲求を満たしたい」というエネルギーを、他者に向けるのではなく、別の方向に向けることに成功したのです!
なんと びっくり!
他者(外側)に対してではなく、自分(内側)に対して、攻撃をするようになったのです!
これが、
「疚しい良心」
他人がダメダメだからやっつけてしまえ~ と攻撃していると、協働の人間社会は成立しなくなる
自分がダメダメだからやっつけてしまえ~ と攻撃していると、協働の人間社会は(一見)成立する
攻撃性が外に向かっている人は、「他人がダメダメだ~!あなたは劣っていて間違っている」と他人を攻撃します
「他人を攻撃する」というのは、「他人を傷つけ、自分の本能にある攻撃的な欲求を満たそうとしている」という言い方もできます
攻撃性が内に向かっている人は、「自分がダメダメだ~!自分は劣っていて間違っている」と自分を攻撃します
「自分を攻撃する」というのは、「本能を外に向けて他人を傷つけないように、自分の本能にある攻撃的な欲求を異なる方法で満たそうとしている」という言い方もできます
強いものが弱いものを攻撃する、というのは、動物が持っている本能です
本能は、攻撃性を持っています
私たちは動物なのですから、この本能を持っています
理性は、自分で物事を判断します
他人と一緒に協働の社会を作りながら生き延びるために、自分自身で善悪や価値を決める新しい人類の生き方です
だから、協働の社会を作るために、他人を攻撃しない代わりに自分を攻撃して欲求を満たそうとする手段を身に付けました
それが、「疚しい良心」と呼ばれるものなのです
人間には、「動物の本能」もあるし、「協働の社会を作るための理性」もある
本能も理性も、どちらも自分自身
他者を攻撃しない代わりに、自分自身を攻撃するようになって生じた「疚しい良心」
他人を攻撃したら、他人が傷つく
自分を攻撃したら、自分が傷つく
誰かを傷つけないと、私たちは、「攻撃的な欲求」を満たすことができないじゃないですか???
じゃあ、どうすりゃいいのよ~~~???
自分を攻撃する「疚しい良心」を利用し、人間を支配してきたのが宗教だ、というのがニーチェの主張です
攻撃的なエネルギーが自分へと向けられて、「自分は間違っている(自己否定)」という意識が生まれます
だから、「欲望を持つこと自体が悪いことではないか」という感情が生まれます
「富を求めることは悪」
「肉欲を持つことは罪」
「自己犠牲や謙虚が美徳」
というような教えを広めることで、人々の本能的な欲求を抑えさせます
キリスト教は、「人間は生まれながらに罪深い」という教えを広め、自己攻撃の感情を強めさせました
「清らかな人間になるためには、自分を罰しなくてはならない」
「自分は十分に努力していない」
「成功している他人と比較して自分はダメだ」
もし、これを読んでくださる方がこのように感じるのであれば、「自分自身が宗教や道徳の影響を大きく受けている」ということもできます

かく言う私も、この影響をかなり強く受けながら生きてきました
だから、苦しかったのです
宗教や道徳は、「こういう生き方をしましょうね~」と客観的な善を人々に伝えています
宗教や道徳の教えを広めることで、人々を支配します
自分自身で価値を創造することを妨げるものです

前のページの言葉で言い換えると、非常に高性能な受信機を使わせず、特定のデータをインプットしているんだね~
欲を持つ自分は罪深く、教えに従って欲を抑え込まなくてはならない
宗教や道徳を信じている自分が、客観的な善の枠の中に収まらなかった場合…
「自分がダメダメだ~」と自分を攻撃します
つまり、フレームを与えられることにより、「疚しい良心」が強化されます
(私は母親によって強力なフレームが作られていたことで、疚しい良心が強化されていたのです)
ツァラトゥストラは、「生き方は、自分でみつけるものだ」と価値を創造する超人を人々に伝えます
自分自身で価値を創造する超人の生き方を「分かる人だけ分かれば良い」というスタンスで語りかけています
ツァラトゥストラの言っていることを信じるのではなく、信じるのは自分自身

ツァラトゥストラの言っていることをそのまま信じていたら、ツァラトゥストラ教という宗教になってしまう…
そうではなく、自分の頭で考え、判断するってことだね~
高性能な受信機も持ってるからね~
世界を創造し、世界を支配するのは、神や他人ではなく、自分自身
自分たちは動物なのだから、欲があって当然!
「自分がダメダメだ~」という自分を攻撃する欲求をも支配します
つまり、疚しい良心を克服・支配する生き方をします
人類が生み出した新しい欲求の満たし方が「疚しい良心」
自分を「ダメダメだ~」って攻撃するもの
自分を攻撃することで欲求が満たされるわけだから、自分はいつの間にか快感・満足感を得ることができます
何かをしたい、と思って、それが満たされれば、快感を得られます
攻撃したい、と思って、自分を攻撃しているんだから、満足できます
「自分を傷つけながら、同時に、満足感を得ている」
ということなのです
自分自身を支配する
「疚しい良心」つまり、「自分を攻撃する欲求」を克服するためには、どうすれば良いか…
自分自身を克服するために、自分自身が「自分を攻撃する欲求」を支配しなくてはならない
自分自身が自分の支配者となる…
それが超人の生き方なのです!!
自分を攻撃する欲求を克服する方法…
この欲求を支配する超人としての生き方についても、ニーチェは後世の私たちに伝えてくれています
その克服方法というのが…
ニーチェによると…
忘れる! ( ゚д゚)
自分の恥ずかしい過去は、忘れるんです!
忘れる、というのも、実は力の1つなのです
健康とは、忘れることができる能力だ
完璧な人間など、存在しない
挑戦するのが人間!
「自分の過去の姿を恥ずかしいと思う」「過去の自分が未熟に感じる」というのは、「成長できた!」ということなのです
過去を覚えていると、人間は、自分にブレーキをかけて、前に進むことを止めてしまう
「自分がダメダメだ~」という自分を攻撃する疚しい良心は、歩みを止めるものなのです
だから、超人へと向かうためには、「忘却する力が必要」ということです!!!!
私自身を例にすると…
自分の考え方が間違っていたということが分かった今、奴隷道徳に染まっている恥ずかしい自分の過去の文章のことを忘れるんです!
「あ~~~私は、奴隷道徳に染まりながら、たくさんの文章を書いてしまったぁ~!ダメダメだなぁ💦」というような「自分をダメな奴だと思う疚しい良心」を、自分で支配するんです!
忘れる!
過去の自分の挑戦のおかげで、今の自分は、新しいものの見方ができるようになったのであって…
少しずつ ONF に近づくことができたのであって…
理想の自分を観測することができたのであって…
奴隷道徳に染まっている状態だった自分のことを、忘れちゃおう~~~!!
これがあったから、成長できた!!
疚しい良心が強いと、
「もう、自分が恥ずかしくて何もできない~!もぐりたい~!!」となっちゃうんだけど、
克服すると、
「こういう挑戦をしたおかげで、自分が成長できた!」
というふうに肯定できちゃうんですね
「おかげで ふりかけ」をサッサッサッとかけてしまおう!
「肯定 ふりかけ~」💗
すべてを肯定的に捉える、という超人の生き方ができる!!
忘れることによって、新しい挑戦ができます!

ああ…
前にどこかに書いていた「ブログを修正しない言い訳」っていうのは、「過去の恥ずかしい文章を忘れる」ってことだね…
ニーチェを言い訳に使うとは… せこい…
というのは半分冗談であって、ゆっくりですが、コソコソと修正も時々行っております…
「自分で納得できる文章を、このブログに書きたい」という思いはちゃんと持っています😊
(新しい文章を先に書きたくなっちゃうから、修正がなかなか進まないですけど…)
別の克服方法…
「疚しい良心」を克服する方法 … 忘れる
というのは、ニーチェが著書に書いていることなんだけど…
ニーチェが著書に直接的に書いていないけど、私なりにニーチェのメッセージを受け取って解釈したものをここに書こうと思います
例として書くのが、いつも自分の経験の話になっちゃうんですけど…
ニーチェの思想と方向性は同じだと思っています
私の考える「疚しい良心を克服する別の方法」というのは…
好きなもの・愛するものをみつけること💗
物でも、動物でも、人でもいい
自分が好きなものに出逢うと、自分の中からエネルギーが出てきて、自分が完成されていくような感覚…
自分が肯定できるようになり、表現するエネルギーが湧いてきて、自分も明るくなるし世界も明るく見える
何かに挑戦しようとする前向きな気持ちが生まれて、行動が変わる
この感覚…、私は、♪Complete の歌詞と曲が自然と思い浮かびます
「疚しい良心」が強かった私ですが、自分の世界が広がった瞬間というのがあるんです
劣っている自分が嫌いで嫌いで、周りと関わることも苦しくて仕方なかったのに、変わることができたんです
「疚しい良心」を吹き飛ばすことができる出逢い、というのは、私だけでなく、誰にでもあると考えています
私の世界が変わったのは、夫に会った瞬間からなのです💗
今までに出会った人と、全然違う…
この場所の空気が、変わる…
頭がリラックスして、どんどん自然な言葉が出てきて…
会話がピタッとする…
私がこのように感じたのは、夫と私の波長が合うからなのだと思います
たぶん、私の小さな波を、優しい夫の大きな波が包み込んでくれているから、波長が合っているように私は感じているのだと思います…
ちなみに、夫も私と出逢った瞬間に直感が働いたそうです
緊張から解き放たれ、自分にかけていたブレーキがはずれて、リラックスした自然な姿でいられる心地良さ…
探していたものがみつかったような感じ…
You complete me!
大嫌いだった自分のことが、ようやく少し好きになれた、楽になれたように感じていたんだと思います
夫の存在のおかげで、自分を攻撃する「疚しい良心」を弱めることができた、ってことだと思うのです
他の人たちに対しても、素直に言葉が出てくるようになり、周りの人たちとの関わりもリラックスして楽しめるようになりました(大人数の前では、頭が真っ白になって固まりますけどね…)
夫に会うまでは、自分がダメな人間だと思うから、何かをしたいと思ったとしても、何かに挑戦することや、自分から世界を広げていこうとするエネルギーを抑え込んでいたのです
「自分が好きだと思う人の存在」が心の支えとなって、何かに挑戦したり、自分を表現したりする自信がついたのだと思います
「自分が好きだと思うもの」というのは、「安全基地」とも呼べるようなものなのかな~と思います
子供が生まれてからは、「子供を大事にしたい」という強いエネルギーを持つことで、もっと世界が広がり…
さらに、世界が広がったのは…
もちろん!!
ONF と出逢った時です💗
自分の考えを文字にして表現したい、って思っていたのに、ブレーキがかかっていたんです
「自分が文章を書いて伝えてもどうせ分かってもらえないだろうし、自分が目立つことをするエネルギーもないし~」(←疚しい良心)
だけど、好きなもの(ONF)をみつけたら…
ブレーキがはずれて、自然な姿になりました~ (^_-)-☆
私は、魂の奥から湧き上がってきた「好きだ」という感情で動けるようになった、ということなのだと思います
自然な自分でいられるから、とても楽しいです♫
自分の魂の奥から湧いてきた「好きだ」という感情が、「生の力」となる
前向きなエネルギーが生まれて、自分自身を肯定することができるようになり、内なる攻撃をやめることができる
自分の理想を観測し、そこを目指そうとする思いが芽生えたとしても…
誰しも、ブレーキ(自分を抑え込む力)を持っているんです
『疚しい良心』というブレーキです
ブレーキを外すために、過去の後悔を忘れる!
そして、自分の好きなものをみつけて、肯定的に自分の生を思いっきり楽しむ!
過去の後悔や他人の価値観に縛られず、「今ここ」を生きる
自分の好きなものに向かって、
理想の自分の姿に向かって、
自分の好きなように生きる
誰かのつくったフレームなんて、関係ない
自分は、自分!
他人は、他人!
ブレーキである「疚しい良心」を支配しちゃえば…
自分の生を肯定でき、思いっきり楽しむことができるよ!!
自分の内側から湧き出てくる欲は…
自分自身を創造する力になるよ!!
ってニーチェは言っているんだと、私は解釈しているのです~♫
だから、自分の真心にブレーキをかける「疚しい良心」を克服すれば、
理想のパラレルワールドの重力が大きくなって…
新しい世界に行けるかもしれない~♫
01 はじめに…
02 パラレルワールド
03 疚しい良心