愛するという行動

3 「実際には」

1人1人感じ方考え方が違っているのは分かっているし、みんなのことを大事に思っているよ

これは、合っているように私には見受けられます

先生は、たくさんの子供たち1人1人に心を配り、笑顔でふれあい、頷きながら納得して子供の話を受け入れて聞いてくださっているからです

自分と異なる考え方の子供の話にも、否定することなく、耳を傾けて寄り添ってくれています

感じ方考え方が違うのが分かっていて、子供のことを大事に思ってくださっているのだと思います

大事にしようとする思いがあるのだと思います

だから、この言葉は、たぶん、合っています

みんなのことを大事にしているよ

これについて考える必要があるように私は思っています

B さんは苦しんでいます

「みんな」というのは、「全員」ということなのだから、1人でも苦しんでいたら、みんなを大事にしていないことになります

だから、「みんなのことを大事にしているよ」というこの言葉は間違っています

「先生の心」で大事に思ってくれていても、実際には、「先生の行動」で大事にしてくれていないのです

「先生の行動」というのは、「ルールを与える」という行動です

この行動を先生は選択し、先生がルールを与えたことによって、B さんは苦しんでいます

ルールを与えるという先生の行為によって、B さんは自分の「心」と異なる「行動」を強いられているのだから、大事にされていません

そして、「制服を着ると、苦しいよ」という真心を、B さんは先生に言葉で伝えていません

だから、B さんがどのように感じているのか、真実を先生は知りません

真実の心、真心を知らないのです

そして、「1人1人感じ方や考え方が違っている」ということは頭で分かっていても、「今、学校がルールを与えたことによって、苦しい思いをする子が学校に存在するかもしれない」ということを想像する先生は少ないのだと思います

さらに、「B という名前の子供が、学校での生活に苦しさを感じるようになった」ということを、どの先生も想像していないのではないかと思っています

もし仮に、「苦しいよ」と真心を子供が先生に伝えていても、「そうか~ でも、ルールだから仕方ないよね… 決められているからね」と日本の先生は言うのだと思います

要するに、子供の思いを受け止めても、ルールを守らせることが子供のためになるのだと先生は信じています

「感じ方の違いを受け止めたとしても、子供の心に寄り添って苦痛を取り除くために実際に行動に移す」ということをしません

「『ルールだから』というのが理由になる」ということは、「決められたことに従うのが当たり前だから」という意味になります

実際には、子供に我慢をさせる、ということです

子供が「苦しい」と真心を先生に言っても言わなくても、先生の行動は変わりません

子供が真心を伝えても、子供に我慢をさせようとするのが、今の日本の常識です

先生が「子供を大事にしたい」と思う真心は、子供に伝わっていません。

子供は先生の真心を受け取れず、実際に受け取っているのは、大事にされずに苦しんでいる状態です

「我慢が辛い」「先生は自分のことを大事にしてくれない」とB さんは、不満を持つようになります

実際には、子供の真心が先生に届かない
先生は、子供の真心を想像していない
子供は、真心を伝えるという行動をしていない
伝えても我慢させられる

実際には、先生の真心が子供に届かない
子供は、苦しめられているから、先生の真心を想像できない
先生は、子供の苦痛を取り除くという行動をしていない
子供に我慢させ、苦しむ状態を保持し続けている

この現象が「歪み」です

お互いの真心が、伝わらないのです

♪ New World で ONF が歌っている「歪み」です

この世は歪んでいます

古いシステムが、私たちの真心を隠してしまうのです

この歪みに気付くと、叫びたくなります

♪ New World で HYOJIN が叫んでいるように…!

ここまで読んでいただいて、

「このくらいの我慢、大したことじゃないじゃん」

「制服を着るのが当たり前なんだから、そんなことで考えすぎだよ」

「自分の心と行動を一致させるなんて、無理なんじゃない?」

みんなが幸せになるなんて、不可能」

と思う方がいらっしゃるのではないかと私は想像しています

このように思うのであれば、

つまり、自由を知らない、ということになってしまいます

なぜなら、

我慢しない
考える
心と行動が一致する(素直・自然)
みんな(全員)が幸せになる

これが、違い・多様性を認め合える自由のある社会だからです。