Wish#1~6の修正・追記

4 自由という恐怖—Wish#1の修正・追記—

人には、運命づけられている「性格」というのがあります

先祖が長い間かけて培ってきた「生き方」が自分の細胞の中に刻まれています

どの情動を自分が強く持ち、どのような精神を自分が持って生まれてくるかは、「」!!

【人間】は、動物的な「欲」を持ち、考えるための「脳みそ」を持ち合わせています

それなのに、日本の道徳が、この自然な姿を歪ませている

【人間】が自分の意志に従って生きることを妨げようとするのが、日本の道徳です

自由は全ての【人間】に必要不可欠です

自分自身が自分の支配者となる【人間】にとっての「自由」は、水や空気のように絶対に必要なものです

【人間】から自由を奪うことは、死も同然、アンドロイドになります

私が言っている【人間】というのは、開拓者・創造者として生まれてきた人々のことを指しています

開拓者というのは、好奇心を持って挑戦する人

創造者というのは、「心」や「未来」を想像して世界を創る人

「内側から見た世界」を創る人です

貴族的な人です

貴族的というのは、嘘つきから区別される言葉を語源とし、「真実な者」という意味を含んでいます

「誰にでも当てはまる客観的な道徳は存在しない」という本質が分かり、「自分自身の徳」を持つ精神の強い人です

言い換えると、「内側から見た世界だけが存在する」という科学のパースペクティブをもつ人です

貴族的な人は、「自分の徳」を持っています

自分で世界を創造できるから、多くの人が騙され続けている「外から見た世界」「客観的な道徳」という錯覚は必要ないのです

卑俗なものに染まらないために、孤独という徳が必要なのです

貴族は錯覚に騙されることなく、自分自身を信じる独立した存在でいることを徳としています

「貴族的であり、強い精神を持っている」

このような人たちには、息をするのと同様に自由が必要です

創造主は、神ではなく、自分自身だからです

開拓者・創造者ではない人の中に、

自由は怖いもの

自由は苦しいもの

と感じる人がいます

そう感じるのであれば、「その人の自然な感じ方」であるのだから、それを周りの人がとやかく言うことではないよね~

と言いたくなる方もいらっしゃるかもしれませんが…

「自由が怖い、自由が苦しい、という感じ方は、その人の自然な感じ方ではない場合がある」と私は考えているのです

もちろん、最初から「我こそが道徳であり、我以外に道徳はない」と、運命づけられている人もいます

客観的な道徳の存在を信じて疑わない人です

その人は、生まれつき「自由が怖い」「自由が苦しい」と感じます

これが、自然な姿です

この思想を持つ人にとって、私の伝えている内容は恐ろしいものに感じられます

「自由が怖い」と感じる人に、「自由は素敵だよ~」というのは、恐怖です

「高い所が怖い」と感じる人に、「高い所は素敵だよ~」と言っているようなものです

なぜ「自由が怖い」と感じるのでしょうか

私の考えを書きますが、まずは、自分で考えることが大切なので、隠しておきます

自由というのは、独立(孤立)が必要です
他人に従うのではなく、自分自身に従います
1人1人、違う価値を持つ多様性を認め合います
自分の価値、自分の行動に自分が責任を持ちます

他の人々を支配しなければならないと思うのは、じつはそれらの人々に支配されるかもしれない、という恐怖があるからだ。協力ではなく戦いを好むのは、他の人々が強いかもしれないという恐怖があるからだ。

・・・

自分が弱いと感じる人々は、他者を恐れ、警戒し、自分を守るために、自分たちのアイデンティティーとされるものに群がる。強い人々は恐れることなく、対立せずに協働し、自分とそのほかの人々のためによりよい世界の創造に寄与する。誰かがみなさんに何かを恐れるべきだというのは、その人が弱いからだ。

『規則より思いやりが大事な場所で/カルロ・ロヴェッリ著/冨永星訳』NHK出版P196-197より

自由を欲する人もいれば、怖がる人もいる
それは、自然なことです
開拓する人も必要だし、そこにあるものを守り続ける人も必要
種の保存のためには、多様な人々が必要です

自由を欲する人は、新しい人類の生き方を開拓し、科学を発展させ、文化を牽引する生き方を運命づけられています
自由を恐れる人は、「未知のものが怖い」と感じ、そこにあるものを保守するように運命づけられています
それぞれが自分に運命づけられた力を発揮することで、数十万年もの間、人類は協働の集団として発展してきました
協働が、人類が進化するために有利な方法だからです

ところが、わずか1万年ほど前、自然な協働の姿が崩れはじめたのです
大きく崩れたのがキリスト教が広まった時だ、というのが、ニーチェの主張です
キリスト教は「平等」を説いていますが、ニーチェは「階層がある」としています
ニーチェのこの思想について、「自分の能力に応じた(運命づけられている)自然な姿がある」「違いを認め合う」というものだと私は解釈しています
ニーチェは「自然なままでいいんだよ」って、力強い言葉で伝えてくれているのです
実際、自分自身の自然な姿、自分の能力を理解して受け入れ、自分の力を発揮することで、人間本来の協働の世界ができあがります

道徳によって自分の自然な姿が壊されると、「自分が未知の存在」になってしまいます
平等の思想が広まり、道徳によって不自然な姿を強いられると、自分や他人の自然な姿が分からなくなります
この「分からないことへの恐怖」が、独立を妨げているのではないかと私は考えるようになりました
自分が分からないから、自分の軸がないから、独立できない
他人が分からないから、支配されるのではないかという恐怖が生まれる
多くの人と一緒に集団を作ってはばをきかせることで、未知の恐怖の存在である他人から自分を守ることができる、という思想になります

強い、弱い、というのは、精神の話です
自分の良い所も、悪い所も、全てをありのままに受け入れることができる強さの度合いです
自分のありのまま、自然な姿を受け入れる強さを持っていれば、強い精神
自分のありのまま、自然な姿を受け入れる強さを持っていなければ、弱い精神
弱い精神の人は、本質から目を背けます
だから、錯覚を信じようとする

カルロ・ロヴェッリさんの文章は、私たちに「希望」を届けてくれます
「長い人類の歴史の中で、他人を支配しようとする争いが起きているのはたった1万年ほどしかない。だから、また協働の自然な姿に人類は向かうことができる!」というような前向きな姿勢が感じられます
こうやって、詩人は、言葉によって多くの人にエネルギーを生み出させるんですね!!!

自由というのは、開拓者・創造者には必要不可欠です
だけど、「未知のものが怖い」と感じられる人にとっては、自由は恐怖です
自分で価値を創造できず、自分の行動に責任を持つ受け入れ能力がない人にとって、自由は苦しみです

違いを認めない道徳が人間の自然な姿を壊し、分からない恐怖が他人を巻き込み、開拓者・創造者の自由を奪います

でも、【人間】であれば…

自分で【人間】として生きることを選択できれば…

道徳が、自然を壊す

道徳が、人々を不自然にさせる

道徳が、「感じ方」を操作する

道徳は、感情を操作できるのです

客観的な道徳は、アンドロイドの世界の錯覚です

正しさから目を背けさせ、錯覚へと人々を導きます

要するに、「客観的な道徳」を語る先生や親というのは、錯覚を語る悪意0の嘘つきになっているのです

錯覚である「客観的な道徳」に従うと、自分で気付かないうちに嘘つきになってしまうのです

貴族的な「自分の徳」に従うと、内側から見た世界が創造できるのです

内側から見た世界が網の目のようにつながっていくと…

この世界は関係で繋がり、1つになります

世界は関係でできている

「嘘つき」から区別するための言葉が、「貴族」という言葉です

自分が信じているのは、

錯覚を語る嘘つきの言葉ですか

それとも、

自分の徳を持つ貴族の言葉ですか

言い換えると…

古いものにこだわっていますか

それとも、

科学的なパースペクティブを持っていますか

さらに言い換えると…

錯覚の世界にいる自分を、自然な自分だと思うように操作されていませんか?

「貴族的な強い精神を持ち合わせているにも関わらず、不自然な状態の自分を、自分の自然な状態だと思わされている人が日本にはとても多い」と、私はみているのです

つまりは、自己理解をさせてもらえない日本の学校で道徳を刷り込まれ、そのまま大人になっている人です

自分の自然な状態を知らずに、「道徳によって外から壊された不自然な状態」を本当の自分だと思っている

【人間】なのに、アンドロイドの仮面をつけている自分に気付かない人

私は、そういう方々に向けて、このブログを書いているんです !(^^)!

そういう方々に、「他人に従うのではなく、自分の心に従うんだよ」「自分で世界を創れるんだよ」っていう言葉が響いたら、私は嬉しいと思ってブログを書いています🌟

【人間】なのに、アンドロイドの仮面を着けている人が、私にはたくさん見えるのです!!

「自然でいいんだよ」「ありのままで素敵だよ」って伝えようとしている思いは…

ONF と私は同じだ、と私は思っているのです

開拓者・創造者の人々と私は同じだ、と私は思っているのです

私の内側から見ている世界は、そういう世界です